会社の帰属意識

1年近く続いたテレワーク生活が一旦終わりました。長くやっていたプロジェクトも終了し、今月から自社作業になりました。久しぶりに会社での作業になったのですが、久しく見なかった社員やパートナーさんと話しているとこの会社に勤めていたんだなと会社の帰属意識が蘇ってくる。テレワークをやっていると給料をもらっている会社というだけで、会社の帰属意識は薄くなり、会社の組織で仕事をしている意識も薄いから、サクッと会社を辞めてしまうんだろうなと思ってしまう。

帰属意識とは、組織に所属しているメンバーがもつ「組織の一員である」「組織に所属する仲間である」という意識のことです。 企業だけではなく、その中の部署やチームも含まれます。 企業では、帰属意識を「企業の業績に貢献するために頑張る忠誠心」とも考えることができます。

久しぶりに自社に戻ってみると退職した人、または今月で退職する人がいるという話を聞いた。テレワークをしているとそんな話も入ってこないっていう現実がある。3月というのが退職のタイミングとしては多いとは思うけれど、それにしても多い印象。テレワークの影響もあるのではと思ったりする。テレワークが帰属意識を低くしているのかもしれないですね。わからないですけど。

課内会議の必要性

テレワークをしているとほとんど会社の同僚と接しなくなってしまう。会議もお客様かプロジェクトリーダーぐらいになってるなあと感じる。

課内のメンバーが何をやっているか、わかるようにと「課内会議」という週一程度課のメンバーが集まって、自分の仕事の状況を報告するというのを以前の課では実施していた。ただ今年度から所属が変わったことで、課内会議というものがなくなった。課内会議は意味ないという課長の思いなのか、課内会議をやらないという、思い切った今の施策にかなり驚きだった。今まで課内会議はやるべきと思っていたし、課内会議はやった方が良いか?と聞かれればやったほうが良いと答えていたから。年度ごとに行われるキックオフでも課内の目標を「課内会議の実施」とうたっていることも多かった記憶がある。

課内会議をやらないと基本的に課のメンバーが何をやっているのかわからないことになる。テレワークであればなおさらだ。課内メンバーと同じプロジェクトになるのは今の課の状況では、ほとんどなく、課のメンバーと仕事することは全くないと言っても良いぐらい。

以前はプロジェクトのトラブルで課内のメンバーにヘルプに来てもらって、炎上プロジェクトを鎮火してもらったものだが、最近トラブルもなくなった?から、ヘルプで課内メンバーが招集されることもなくなったので、課のメンバーと会うこともなくなった。トラブルはなくなったのは良いことだと思うが、ますます課内メンバーとの接点が減るので、冒頭に書いた会社の帰属意識はなくなっていくんだろうなとは思う。

次長の退職に思うこと

テレワーク生活が終わって自社で作業をするようになり、後輩やパートナーさんと昼飯にまた行くようになった。最近昼飯は自席で取る人も多いので、一人で外に昼食を取ることもあるが、以前から一緒に昼食を取っていたメンバーがちょうど自社にいるので、また以前のメンバーで行くようになったら感じですね。ランチミーティング?は有意義との意識があるから、どのプロジェクトでも外に昼食に行くようにしている。ランチミーティングに行くことで、メンバーの状況がわかるし、会話の中で得るものは多い。

その辺の話以下の記事に書いた。

そのランチミーティングで以前のプロジェクトリーダーであり、役職的には次長が退職することを聞いた。若くて役職が次長まで上り詰めて、一度だけ昼飯もご一緒したこともあった人だ。もうずっとうちの会社で骨を埋める人の印象だったので、かなり驚きだった。次長までの役職に上がっても退職してしまうのである。

まあ、考え方が逆なのかもしれない。次長までの役職であるから、ストレスも相当なのかもしれない。うちの会社は課長、次長が一番割合わない役職で部長から楽になると聞いたことがあるが、課長、次長にならないと部長にはなれないのだからね。まあ、実際部長が楽なのかどうかはわからないけどね。

今回退職する次長は、若くて出世したのだから当然仕事も出来るのだろう。転職も比較的しやすかったのかとは思う。

テレワークが進めば退職が増えるのではないかと思わせる。テレワークと退職の関係についてどっかに統計出てないのかね。

最後に

自分は全く昇格していないが、早く昇格しても退職してしまったりするので、出世のタイミングも大事なのかもしれないですね。まあ、何が良いのか悪いのか。定年までわからないものですね。自分も好きなことわざでもあるが、「人間万事塞翁が馬」ですね。良い意味で他人と比較せず、自分が良いと思うことをしていこうと思う。

「人間万事塞翁が馬」とは

幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえです。 また、人生において、何がよくて何が悪いのか、後になってみないとわからない。 という意味もあります。

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